2009年06月16日

脂肪酸の命名法はIUPAC生化学命名法に定義されて

脂肪酸の命名法はIUPAC生化学命名法[2]に定義されている。(尚、この項の符号Rule Lip-…は同命名法の節番号を示す)

脂肪酸は天然の脂肪を加水分解して得られる脂肪族モノカルボン酸である。広く使用されている遊離脂肪酸(free fatty acids)や非エステル化脂肪酸(nonesterified fatty acids)という語が使用されているが、遊離や非エステル化という修飾語は徐々に廃止すべきである(Rule[2] Lip-1.1)。また、これらのアクロニムであるFFAやNEFAなどは使用すべきではない(Rule[2] Lip-1.14)。言い換えると、厳密には炭素数が3以下など天然の脂肪に含まれないものは脂肪族モノカルボン酸と呼ぶべきであるが総称として脂肪酸と呼ばれる。
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尚、脂肪酸基をアシル(基)という語で示す場合があるが、アシル(acyl)はIUPAC有機化合物命名法によるものである。アシルは任意の長さの直鎖構造を持つがIUPAC生化学命名法の脂肪酸は炭素数が4以上のものを指す。そして、炭素数が10を超える(>C10)脂肪酸は高級脂肪酸(higher fatty acids)と呼ばれている。(Rule[2] Lip-1.2)

脂肪酸とそのアシル基の命名はIUPAC有機化合物命名法(Rule C-4)に従うまた許容慣用名や略号については下の表に示す。いままでは2つ以上の二重結合を有する不飽和脂肪酸でギリシャ文字を使用して異性体を示していた(例α-ないしはγ-リノレン酸)、これは二重結合の位置番号を列挙する方法(例 (9,12,15)-リノレン酸ないしは(6,9,12)-リノレン酸)に変えるべきである。しかし、二重結合の位置を示すさいに接頭辞としてギリシャ文字を使う方法は位置を列挙する方法の省略形として使用しても良い(Rule[2] Lip-1.6)。あるいは二重結合の位置はIUPAC有機化合物命名法の省略形であるΔを使用してもよい(例 Δ9,Δ12,Δ15-リノレン酸)。

また脂肪酸を炭素数と二重結合の数の組み合わせ(例 16:0 = パルミチン酸, 18:1 = オレイン酸 )で示しても良い。アシル基の場合は(stearyl-の代わりに)(18:0)acyl-と表しても良い (Rule[2] Lip-1.15)。

脂肪酸末端(カルボキシ基から最も離れた位置)から同じ位置に二重結合を持つことを示す場合は(例、末端から9番目に二重結合を持つ脂肪酸グループの場合)はn-9と示す(nは具体的には当該脂肪酸の炭素数を意味する)。あるいはω9とも示す(ωは二重結合の位置を示すギリシャ文字省略形)。すなわちオレイン酸の二重結合18-9とネルボン酸の24-9とはω9[3]と総称する (Rule[2] Lip-1.16)。

一般に炭素数が短くなると融点が下がる。炭素数5のペンタン酸などでは融点は −34.5 ℃ である。一方、炭素数が増加すると融点は上昇する。炭素数30の トリアコンタン酸の融点は 93.6 ℃ である。炭素数が7以下のものを短鎖脂肪酸、8?10のものを中鎖脂肪酸、12以上のものを長鎖脂肪酸という。

ω3 系列か、ω6 系列かをはっきりさせるため、20:5 ω3あるいは20:5(n-3)と表記することもある。

2009年05月30日

豊臣国松

豊臣 国松(とよとみ の くにまつ/とよとみ くにまつ、慶長13年(1608年) - 慶長20年5月23日(1615年6月19日))は、豊臣秀頼の子。母は秀頼の側室の伊茶(渡辺五兵衛の娘。小田原北条家の家臣成田氏の娘との説があるが、最近は渡辺氏説が有力である)。妹に天秀尼がいる。

国松は生後すぐ若狭京極家に預けられた後、乳母の再嫁先である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られている。

大坂冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、常高院と共に大坂城に入城。その後、和議が整ったのでそのまま滞在した。 翌年の大坂夏の陣のおり、国松は父の秀頼と5月8日に盃を交わし、乳母某と田中六郎左衛門(京極家侍、傅役か)と共に城を落ちる。
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しかし、徳川方の捜索により[1]国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で乳母某と田中六郎左衛門と供に斬首。享年8。この際、国松は幼少の身ながら、徳川家が豊臣家に対して犯した数々の背信行為を糾弾した上で、動揺の色も見せず死に赴いたとも伝わる[要出典]。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら志願して同時に処刑されたという。

異説では、国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われた後、豊後国日出藩木下家の分家の交代寄合の祖、木下延次(木下延由)になったとされている。その根拠として木下延次の位牌には国松という文字が刻まれているという。

実際は、島津氏は大坂の陣に参陣しておらず、大阪から国松を保護して連れ戻ることは困難である。但し、関ヶ原の合戦後には宇喜多秀家が、大坂夏の陣後には明石全登の息子が薩摩国まで落ち延びたことがあり、そういう事実から創作された話と考えられる。ちなみに現在の鹿児島市には「豊臣秀頼の墓」なる真偽不明の“遺跡”が残っているなど、秀頼生存説も残っている。

2009年04月27日

開戦前の段階

1933年に国家社会主義ドイツ労働者党が政権を握ると、ヒトラーはまずポーランドとの友好政策を図り、1934年にはドイツ・ポーランド不可侵条約を締結した。英仏の対ドイツ宥和政策の結果としてドイツが1938年にオーストリアを併合し、1939年にチェコスロヴァキアを解体し、チェコを併合してスロバキアを保護国化すると、ナチス政権は矛先をポーランドに振り向けるようになった。ドイツの主な関心事は国際連盟の管理するドイツ人の住む自由都市ダンツィヒの存在と、ポーランド回廊と呼ばれたバルト海に続くポーランド領によってドイツ本土から切り離されている東プロイセンの存在であった。

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ダンツィヒの状況はドイツにとって腹立たしい存在だった。ここは第一次大戦におけるドイツの敗戦によってドイツから奪い取られた領土であるため、ヒトラーはダンツィヒのドイツ系住民の解放を謳ってナショナリズムを煽った。1939年初頭にヒトラーは軍事力によるポーランド問題の解決を準備する秘密命令を下し、続いてドイツ政府は自由都市ダンツィヒのドイツへの編入要求と、ポーランド回廊を通過し東プロイセンとドイツ本土を結ぶ治外法権の道路建設の要求を強めた。ポーランド侵攻計画は4月3日までに準備が整っていた。
ヒトラーはポーランドがドイツの要求に譲歩するものと考えていた。しかし、ポーランド政府は要求を拒否した。ドイツの拡張主義に危機感を抱いたイギリスとフランスは3月30日にポーランドに対し軍事援助の保証をしてポーランド政府の方針を支持した。ヒトラーはイギリスとフランスを来るべきポーランドとの戦争に介入させないようにできると考えていた。4月28日にドイツは、1934年に締結されていたドイツ・ポーランド不可侵条約と、1935年に締結されていたロンドン海軍軍縮条約の両方を破棄した。一方ポーランドは皮肉にも1938年のミュンヘン協定の直後にチェシン市のうちチェコスロヴァキア領だった部分(チェスキー・チェシンČeský Těšín市)を自国領に併合することでドイツの拡張主義から利益を得ることとなった。この地は以前からポーランドとチェコスロヴァキアで領有権を争っていた経緯がある。チェスキー・チェシンは面積こそ小さいが、人口構成はポーランド人が多数派で、炭鉱を中心としたその経済はポーランドの中央産業地帯 (Centralny Okręg Przemysłowy) と密接な相互依存の関係にあった。ドイツとの戦争の可能性は年々高まってきており、ポーランドは自国の工業化を急ぐため中央産業地帯に多大な投資をしていた。

1919年から1939年までの期間、イギリスの基本的な外交政策の主眼は、アメとムチの使い分けによって世界大戦の再発を防ぐことにあった。ムチとは1939年春にポーランドに保証した軍事援助で、これはドイツがポーランドやルーマニアを攻撃するのを防ぐためであった。同時に、首相のネヴィル・チェンバレンと外相のハリファックス卿はミュンヘン協定と同様のやり方でヒトラーにアメを与えることを考えた。これはダンチヒ自由都市とポーランド回廊をポーランドの他の部分の領土保全の保障と引き換えにドイツに割譲することであった。

これはしかしポーランド外相ユゼフ・ベック大佐がチェンバレンやハリファックス卿と会談した後、変更された。1939年8月25日にフランス・ポーランド間の軍事同盟を補完するものとしてポーランド・イギリス相互援助条約が締結された。これでイギリスはポーランドの独立を守る義務を負った。


2009年04月10日

ホルン(Horn, horn)

ホルン(Horn, horn)は金管楽器の一種。イタリア語ではCorno(コルノ)、フランス語ではCor(コール)と言い、もともと「角」の意味を持った言葉であるが、古くから「角笛」を意味してもいた。現在ではホルンとは、一般にはフレンチ・ホルンを指すことが多い。

なおホルンと名のつく金管楽器にサクソルン族のフリューゲルホルン、アルトホルン、テナーホルンなどが有るが、これらはマウスピースやバルブの構造、管体の形状からホルンとは区別される。マーチングなどでホルンの代わりなどに使われるメロフォンは外観はホルンに似ているが別の楽器である。またホルンを名前に含む楽器に木管楽器でオーボエ族のイングリッシュホルン(コールアングレ)やクラリネット族のバセットホルンなどがある。これらはもちろん金管楽器であるホルンとは直接の関係はないが、ホルンを名前に含む楽器がこのように多いことから、ヨーロッパの吹奏楽器の歴史の中で角笛が重要な位置をしめていたことが伺える。2007年度のギネス・ワールド・レコーズ認定の世界で一番難しい金管楽器である。

フレンチ・ホルン [編集]
フレンチ・ホルン(英語:french horn)はカタツムリのような形状に巻かれた円錐状の管と、3つから5つの、通常はロータリー式のバルブ(弁)を持つ。へ調と変ロ調の調性を持った楽器があり、それぞれF管、B♭管と呼ばれるが、一般的には、それらを一つに組み合わせ「切換バルブ」と呼ばれる特殊なバルブで切り換えられるものが多用される。単一の調性の楽器をシングル・ホルン、2つの調性を持つものをダブル・ホルンと言って区別するが、ダブル・ホルンに一般的なヘ調より1オクターブ高い「ハイF」などを追加したトリプル・ホルンと呼ばれるものも存在する。

ホルンの管体は0.3-0.5mm程度の薄い真鍮素材で作られている。ホルンの管体部はその真円形状を保つため、高温で溶かした鉛やタール等の充填材を流し込み、曲げ加工の後その充填材を取り除く形で制作される。大量生産の場合には管体に水を通してそのまま凍結し、曲げ加工の後氷を融かして外に出し、管体を型にはめて内部から圧力をかけることで完全な形に仕上げる工法が取られている場合もある。

英語圏ではhornという単語が金管楽器一般に用いられるため、他の金管楽器と区別する為にこの楽器にはフレンチ・ホルンという名称が一般的に用いられる。名前からフランス発祥の楽器かと思えるがそうではなく、たまたま英国にはフランス宮廷文化の一部として伝わった事により「フランス趣味のホルン」の名が冠されたものである。ドイツ語では同じ様な理由で動物の角(hornの原義)と区別するため、「森のホルン」(ヴァルトホルン、Waldhorn)という名称が用いられる場合もある。

金管楽器であるが、音色のやわらかさから金管楽器のみならず木管楽器ともよく調和する。通常の木管五重奏では標準的にホルンが加えられているが、初めて木管五重奏が書かれた時代(18世紀後半から19世紀初頭)のホルンは後述するナチュラルホルンであり、バルブ操作を必要とする用い方はしていない。

シングル・ホルン [編集]
シングル・ホルン(Single Horn)は、単一調の管のみによって構成される形態をとる。一般にヘ調または変ロ調の管を用い、それぞれFシングル・ホルン、B♭シングル・ホルンと呼ばれる。楽器が軽くて扱いやすいほか、構造が比較的簡単なため価格が安く、特にFシングルのものはナチュラル・ホルンに最も近い音を出すことができる。また、B♭シングルのものは軽い吹奏感が好まれる。

Fシングル・ホルンは、音色は良いものの、管が長く高音の倍音間隔が狭いためミスを起こしやすく、操作性が悪い。一方B♭シングル・ホルンは、F管に比べて操作性は良いが、音色が劣る。両方の利点を組み合わせたダブル・ホルンの誕生と普及により、シングル・ホルンはあまり使用されなくなっている。

また、通常のF管より1オクターブ高い音域を演奏できるHigh-F管(F-Alto管)のものをディスカント・ホルン(Descant Horn)と呼ぶ。管長が通常のFシングル管の半分しかなく、倍音の間隔が広いため、高音域の操作性がB♭管や通常のF管よりも高くなる。しかし操作性と引き換えに音色はB♭管や通常のF管よりも劣る。バッハのブランデンブルク協奏曲のような高音域が使用される曲の演奏にはこのディスカント・ホルンが用いられることがある。

シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア


2009年03月27日

スーパードルフィー

スーパードルフィー (Super Dollfie) とは、株式会社ボークスによって製造、販売されているレジンキャスト製の一般向け球体関節人形である。SDと略されることもある。

1999年2月発表。以前より発売されていた、ボークス製1/6サイズカスタマイズドールの商品名が「ドルフィー(ドール+フィギュアの造語)」であったことから、「ドールホビーの最高峰としてスーパードルフィーと名付けた(スーパードルフィーパーフェクトカタログ2 より)」。

そもそもがガレージキットメーカーであるボークスの商品であるため、発売当初は模型雑誌に広告が打たれ、カスタマイズ方法が掲載されるなど、人形というよりはフィギュアに近い扱いがされており、販売数・生産数ともに少なく、受注生産に近い形で販売された。

ユーザーによるカスタマイズを前提とした商品で、着せ替えやウィッグの交換からドールアイの取替えやフェイスのリペイント、果ては削りやパテ盛りによるパーツの改造など、さまざまなレベルでの「カスタマイズ」を楽しめる。

これまでレジンキャスト製のガレージキットの世界の顧客の大半は男性であったが、その中にあって初めて女性をメインターゲットにした商品であり、ボークスのビジネスに大きな変化をもたらした。塗装を「メイク」、バリ取りやパーティングライン消しを「エステ」と読み替えて推奨したりサービス化したりした広報上の工夫も、この製品の特徴の一つである。

近年では日本国内だけでなく、海外にもファン層を広げている。

レジンキャスト製であるため、日光による照射や経時変化等により黄変と呼ばれる劣化が起きる欠点がある。

スーパードルフィーはボークス社の登録商標であり、60cmサイズ、40cmサイズのレジンキャスト製球体関節人形の総称として「スーパードルフィー」の名前を使用するのは誤りである。


種類 [編集]

ボディの種類による分類 [編集]
スーパードルフィー - 60cmサイズ。略称SD。女の子 ・男の子 ・天使の3タイプ。
スーパードルフィー13 - 60cmサイズ。略称SD13。女の子 ・男の子 ・精霊の3タイプ。
スーパードルフィー16 - 65cmサイズ。略称SD16。男の子 「椹木 雪之丞」女の子 「オリビア・モーガン」「アメリア」「ガーネット」「ルビー」の5タイプ。
スーパードルフィー17 - 65cmサイズ。略称SD17。男の子 「レイズナー」「アラン」「レイズナー・ザ・スカーフェイス」の3タイプ。
ミニスーパードルフィー - 40cmサイズ。略称MSD。ボディは女の子 ・男の子 ・天使の3サイプ。ヘッドは通常ヘッドと耳を付け替えられる妖精ヘッドの2タイプ。
SDキュート - 40cmサイズ。略称SDC。ボディは男の子 ・女の子 の2タイプ。ミニスーパードルフィーに比べ体型がほっそりしているため、衣服やウィッグの互換性はないとされているが、一部ウィッグは互換して使っている人もいる。(MSD, SDCute用としてボークスより販売されている衣装もある。)ウィッグは幼SDと互換性がある。
幼SD - 30cmサイズ。女の子 ・男の子 ・天使の3タイプ。

非売品・未発売の種類 [編集]
精天使SD - 23cmサイズ。ボディは天使タイプのみ。販売はされておらず、京都の霞中庵 竹内栖鳳記念館の一部を改装したSD専門展示施設「天使の里」でのイベントや、ドールズパーティーで行われるビンゴ大会の景品として配布されている。その希少性のため、インターネットオークションに出品されると数十万円という高値がつくこともあり、ボークスの社長自ら「(精天使が出品されたことについて)ショックを受けた、要らないのであれば返してください」と発言したことがある。とはいえ、「喜怒哀楽」を表現した数種類あるヘッドの中から、ランダムで組み上げた一体が当選者に手渡されるため、必ず好みのヘッドが手に入るわけではなく、ヘッドの造形自体も「あたり」「はずれ」が大きいといわれている。原型制作・大橋昇。
霊天使SD - 非売品。「あなたが未だこの世に生まれる以前の姿」を表現している。精天使SDよりも更に小さいサイズ。2007年2月22・23日に開催されたスーパードルフィーオーナーズ感謝祭inハウステンボスで公開された。
母SD - 未発売。サイズ不明。「あなたが愛の結晶をその身の内に宿した頃」を表現している。また、天使の里に展示されている「全てのSDの母」である「聖母」を意味することもある。
霊天使SD、母SDに関しては、現在多様なサイズで販売されている海外(韓国)製キャストドールの国内進出を牽制する意味で、設定のみ先行発表したともいわれている。

スーパードルフィーの年齢について [編集]
SDには、公式設定として「10歳」「13歳」「16歳」という年齢がつけられているが、「13歳」とされるものは男女ともに成人の体付きであり、むしろ「10歳」の男女の方が、現実のローティーンに近い。 2001年にSDの成長後(13歳)の姿としてSD13が発表されたことから、従来からのSDに対して自然発生的に「10歳」の設定が付けられた。同時に、MSDを4-5歳とする設定もつけられた。

SDおよびSD13(女児)のサイズは55-60センチで、身長差はほとんどない。SD13はヘッドパーツがSDより一回りほど小さく作られており、長身に見せる工夫がなされている。しかし、近年では「小顔SD」と呼ばれるヘッドパーツの小さなSD出てきているため、一見しただけではSDとSD13の区別がつかない場合もある。

MSDは2006年に「みどり通園バージョン」「まなぶ通園バージョン」の両モデルが発売されたため、幼稚園児であるとの年齢設定が確定された。しかしながら、特に女児の体型は、幼稚園児というより小学生の中〜高学年と見るほうがふさわしい。

素材、メイクの仕様遍歴 [編集]
スーパードルフィー(旧メイクバージョン) - 1999年から2002年にかけて販売されたバージョン。眉が太く、メイクがはっきりしている。現在は、フルチョイスでメイクタイプ「ソリッド」を選択することで、似たテイストのメイクのSDをオーダーすることができる。
新メイクバージョン - 2002年から2003年にかけて販売されたバージョン。ナチュラルメイクに変更された。また、一部のSDは新メイクバージョンの発売に伴ってウィッグやドールアイが変更された。
新ボディバージョン - 2003年5月以降販売されているバージョン。ピュアスキン素材と呼ばれる専用のレジンキャストが使用されている。
すわりっこボディ - いわゆる「女の子ずわり」ができるボディ。膝関節が通常のボディとは異なり深く曲げられるようになっている。
KIPS - keep it posed system の略。従来のSDよりもポーズをつけやすくしたボディ。ポーズを維持するため、関節にシリコンシートが挟み込まれている。

販売方法 [編集]
SDの流通はボークス直営の店舗(「天使の里」「天使のすみか」「ショールーム」の3形態)と通販、イベント販売に限られている。販売の際にはオーナーに対して「購入される」という表現はされず「お迎えになる」といった表現をして、購入することも一種の儀式として演出される。

スタンダード - 常時、ボークスの店舗で売られているもの。組み立て済み(MSDは未組み立て)の人形とウィッグ、簡単な衣装がセットになっている。
フルチョイス - ボディパーツの指定、瞳、髪の色、メイク、などを自由に選んでオーダーする。「天使のすみか」および「天使の里」と呼ばれる店舗でのみ受けられるサービス。ヘッドパーツには「天使の里」のみでオーダーできるものがあり、「里限定」と呼ばれている。
限定 - イベントやフェアなどに合わせて発売される仕様のもの。上記と違い、衣装が付属する。一定数(一説には数百体程度)を生産し、再生産は行われなかったため、オークション等での高騰を招いていたが、2004年末以降、一部の限定モデルに関しては期間を限定しての受注生産方式が採用された事もあった。(今後もその方式で販売されるものが出るかは不明)
ワンオフ - 特定の人物(フィニッシャーや職人などと称される)によってアレンジされた一点もの。廃番になったヘッドパーツや試作段階のパーツが使用されることがあり、付属する衣装も一点ものである場合が多い。「ドルパ」などのドールイベントや一ヶ月に一度「天使のすみか」にて発表され、一定期間展示した後オークションや抽選によって販売される。

ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

2009年03月11日

グアナカステ保全地域

グアナカステ保全地域(Area de Conservación Guanacaste)は、コスタリカの保全地域の一つである。コスタリカは、全国の国立公園や自然保護区を11の保全地域にグループ分けして管理を行うSINAC(Sistema Nacional de Areas de Conservación de Costa Rica)という制度を導入しているが、グアナカステ保全地域は、そのうちコスタリカ北西部グアナカステ州一帯に位置する保全地域である。1989年8月16日に設定され、1994年にはフンキリャル湾国立野生生物保護区が加わった。

1999年には、保全地域内のグアナカステ国立公園、サンタ・ロサ国立公園(海域を含む)、リンコン・デ・ラ・ビエハ火山国立公園、フンキリャル湾国立野生生物保護区、オリソンテス試験森林がユネスコの世界遺産リストに登録され、2004年にはサンタ・エレナ地区が拡大登録された。

グアナカステ国立公園(Parque Nacional Guanacaste)は、コスタリカ北部にある国立公園である。オロシ山(Orosí)やカカオ山(Cacao)の斜面から、パンアメリカンハイウェイまで広がっており、そこでサンタ・ロサ国立公園に接している。

設定されたのは1989年のことで、その一因となったのはダニエル・ハント・ジャンゼンが展開したキャンペーンと資金集めである。それによって、乾燥帯の森林と熱帯雨林との間を多くの種が季節ごとに行き来できるようになったのである。公園は約 340 km? で、140種の哺乳類、300種以上の鳥類、100種の両生類・爬虫類、10000種以上の昆虫の棲息が確認されている。

最も近い都市は北西のラ・クルス(La Cruz)である。公園内にはグアナカステ保全地域の本部の他、研究拠点(station)が複数存在している。そのうちピティリャ(Pitilla)は公園の北東端に、カカオ(Cacao)はカカオ山南西の斜面に、マリトサ(Maritza)はカカオ、オロシ両火山の近くに、それぞれ位置している。

リンコン・デ・ラ・ビエハ火山国立公園
リンコン・デ・ラ・ビエハ火山国立公園(Parque Nacional Volcán Rincón de la Vieja)は、1973年11月16日に設定された国立公園で、面積は 142 km? である。コスタリカの北西部に位置し、リンコン・デ・ラ・ビエハ山(Rincón de la Vieja)とサンタ・マリア山(Santa María)という二つの火山を抱えており、休火山であるチェロ・フォン・ゼーバッハ山(Cerro Von Seebach)も存在している。国立公園内での最後の噴火はリンコン・デ・ラ・ビエハ山のもので、1998年のことだった。

最も近い都市は公園の南に位置するリベリア市である。公園内には観光案内用の二つの拠点サンタ・マリア(Santa Maria)とパイラス(Pailas)があるが、どちらも公園の南側にある。

公園内は野生生物が多く、鳥類はヒゲドリ、キバシミドリチュウハシ (Aulacorhynchus prasinus)、あるいはケツァール、ホウカンチョウ、ワシなど300種以上が棲息している。主な哺乳類としては、クーガー、キンカジュー、ジャガー、サルなどが挙げられる。

サンタ・ロサ国立公園
サンタ・ロサ国立公園(Parque Nacional Santa Rosa)はコスタリカ北西部の国立公園で、東端にはパンアメリカンハイウェイがあり、向い側にグアナカステ国立公園がある。中心地は、グアナカステ州リベリア市の北方36 km に位置している。

設立は1971年のことで、元々はサンタ・ロサの戦い(Battle of Santa Rosa)の戦場を保護する目的で設定されたが、当初から史跡だけでなく、サバナ、落葉樹林、湿原、マングローブ林なども保護対象に含んでいた。面積は約 495 km? で、コヨーテ、ペッカリー、バク、coatimundis等の多様な種が棲息している。サルの仲間としてはアカクモザル(Ateles geoffroyi)、マントホエザル(Alouatta palliata)、ノドジロオマキザル(Cebus capucinus)という3つの種が棲息している。そのほか、ウミガメやリクガメの種類も豊富である。なお、ジャガランディ、オセロット、ピューマ、ジャガーなどネコ科の動物も棲息してはいるが、目撃されることは稀である。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

世界遺産登録対象には陸上部分だけでなく、海域部分も含まれている
フンキリャル湾国立野生生物保護区(Bahia Junquillal National Wildlife Refuge)は、熱帯性や亜熱帯性の乾燥した森林および湾岸のマングローブ林を保護することを目的に、1995年に設定された保護区である。

オリソンテス試験森林
オリソンテス試験森林(Horizontes Experimental Forest)は、グアナカステ保全地域内に設定された自然保護区で、農地に転用された地区を再び乾燥した熱帯林(dry tropical forest)に戻す方法を模索することを目的として、試験的な森林回復計画が進められている地区である。

サンタ・エレナ地区
サンタ・エレナ地区(Santa Elena Sector)は、グアナカステ保全地域内に存在する細長い地域である。公有地でないが、2004年に地主たちと政府当局が合意に達したことから、世界遺産の登録対象に含まれた[1]。

IUCNカテゴリー
3つの国立公園のIUCNカテゴリーはII(国立公園)、フンキリャル湾野生生物保護区はIV(種と生息地保護区)、オリソンテス試験森林とサンタ・エレナ地区はUNEPのサイトに記載がないので未詳である

2009年02月23日

バリ語

バリ語は、インドネシア・バリ島で使用されている言語である。およそ、インドネシアの人口の2.1%にあたる380万人の話者を持つ。ジャワ島でも使われている。
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

バリ語はオーストロネシア語族のひとつであり、バリ・ササク諸語に属する。バリ・ササク諸語にはバリ語以外に、ロンボク島のササク語やスンバワ島のスンバワ語をはじめバリ島の東に続くヌサ・トゥンガラ諸島のことばがあり、バリ語と関係が深い。

バリ語の大きな特徴は、敬語表現の存在である。これは、ジャワ語などの他のスンディク諸語にも見られる特徴であるが、同じスンディク諸語のひとつでもある、インドネシアの公用語のインドネシア語(マレー語)にはない特徴である。

バリ語の敬語表現は、現代日本語のそれとはかなり異なる。現代日本語には、尊敬語と謙譲語の2種があるが、さらにバリ語には、それぞれにいくつかのランクがある。また、敬語表現は主として動詞であって、名詞などは少ない。異なる単語を使わなければならない表現は、いらっしゃる⇔行く⇔参るなどであるが、それほど多くない。ところが、バリ語の場合には、バリ・ヒンドゥーによるカースト制度をもとに、話者と聞き手のそれぞれの身分に従って、異なる敬語表現が存在する。動詞に限らず名詞にも、全く異なる単語が多くあり、それらを使い分けなければならない。しかも、それを間違えると大変な失礼になるとされる。このため、バリ人であっても、普段接しない身分の相手とはバリ語で話すのを避けて、あえてインドネシア語を用いる。

また、以上のような敬語表現の煩雑さから若年層の間ではバリ語離れが進んでおり、その対策が州政府などによって政策的に行なわれてもいる。

文字
バリ語の表記には、ブラーフミー文字に起源を持つ独特のバリ文字を持つが、宗教関係や、インドネシア語に並記した住居表記や道路表記などを除けば現在ではほとんどローマ字を用いる。

[編集] 挨拶
Matur suksma マトゥール・スクスマ - ありがとうございます
Rahajeng semeng ラハジャン・スマン - おはようございます
Rahajeng wengi ラハジャン・ウンギ - こんばんは

方角
地名に頻出する。なお、南北を表す kelod と kaja は、「海側」、「山側」の意味なので、南バリと北バリでは南北が逆になる。

kangin カンギン - 東
kauh カウ - 西
kelod ケロッ - (南バリでは)南、(北バリでは)北
kaja カジュ - (南バリでは)北、(北バリでは)南

2009年02月06日

倭・倭人関連の朝鮮文献

倭・倭人関連の朝鮮文献は、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭・倭人と関係する部分のみを書き出している。

広開土王碑文 (414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))建立)
チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
訳;井上秀雄『古代朝鮮』<講談社学術文庫>2004 ISBN 4-06-159678-0

三国史記(高句麗本紀)
倭・倭人関連の記載なし

三国史記(百済本紀)
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
653年 秋八月、王は倭国と修交した。
662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は救援の倭軍の軍船400艘を白江に焼く。
百済軍と倭軍は唐に降伏し、扶餘豊は行方不明となる。

三国史記(新羅本紀)
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。馬韓王が瓠公に「辰・卞二韓は、わが属国であったのが、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
123年 春三年に倭国と講和した。
158年 倭人が交際のために訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿飡の急利の娘を倭国に送った。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲し、5日も解かなかった。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を攻める。
418年 高句麗と倭国への人質が逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を攻める。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を攻めるも勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を攻める。
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を攻める。
486年 夏四月に倭人が辺境を攻める。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
698年 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
703年 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。
722年 日本の賊の路を遮断した。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
742年 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼と判断し、王は接見しなかった。
802年 冬十二月、均貞に大阿飡の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
804年 夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。
806年 春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。
808年 春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。
864年 夏四月に日本国の使臣が来た。
879年 八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。
882年 夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。

三国史記(雑志)
宋祁の『新書』には「東南は日本であり、西は百済、北は高句麗で、南の濱は海である」といっており。・・・

三国史記(列伝)
任那強首伝「臣、もと任那加良の人。名は字頭。」
233年 助賁王の四年の七月に、倭人が侵攻して来たので、于老は、沙道でこれを迎え撃ち、風に乗じて火を放ち敵の戦艦を焼いた。敵は溺死してほとんど全滅した。
253年 倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。この時、于老の子は幼くして、能く歩くこともできなかったので、人がかれを抱いて馬に乗って帰ってきた。この子は後に訖解尼師今(十六代王)になった。未鄒王(十三代王)の代に倭国の大臣が来た時、于老の妻は国王に乞うて、家に倭国の使臣を招待して酒宴を設け、彼らが酒に酔うや、力の強いものに彼らを庭に引きおろし焼殺して、夫を焼殺された恨みをはらした。これに倭人は怒り、金城に攻めて来たが、勝てずして引き返した。
402年 壬寅の年に、倭国と和親を結ぶ時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人質としてつかわした事をうらんでいたので、その恨みをその子ではらそう思っていた。それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣を倭国に派遣した。
779年 金巌は王命を受けて、日本国に使臣として行ったが、その国王は、彼が賢明な人であることを知り、抑留しようとした。たまたま、大唐の使臣の高鶴林が来て、互いに会って非常に喜ぶと、倭人たちは金巌が大国にもすでに知られている人物であることをさとり、敢えて留めておけず、すぐ帰した。

2009年01月22日

慰安婦と外交問題

日本政府の対応
1965年の日韓基本条約により、日本と韓国の間の請求権の問題は法的に解決されたとことになっている[139]ため、日本政府は、医療・福祉支援事業や民間の寄付を通じた「償い金」の支給などの元慰安婦に対する償い事業のために、1995年、「女性のためのアジア平和国民基金」を設立。運営経費や活動資金を負担した。歴代総理からのお詫びと反省の手紙[140]を各慰安婦に送った。フィリピン、韓国、台湾において、計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を贈るほか、医療・福祉支援事業を実施。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に対し援助。元慰安婦の特定が困難であるとするインドネシアに対しては、同国政府の行う高齢者社会福祉事業を援助した。韓国や台湾では日本政府に対し、「法的責任を認め、国家補償を行なえ」という主張を掲げる運動体の影響が強く、「アジア女性基金」を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられたり、政府や民間団体が「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」ことを表明したため、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。[141]

慰安婦に対する海外の認識

韓国
2004年2月、韓国国内で挺身隊(韓国では慰安婦の意)をテーマにした映像・写真集が民間業者によって企画・撮影されたが、被写体の女性が上半身裸であったことから「商業的ヌードに挺身隊のイメージを利用するのは冒涜だ」と市民から猛抗議が起きた。結果、企画は中断されることとなったが、未だに韓国で慰安婦問題が大きな問題として存在していることを象徴する事件であった。

欧米

欧米の研究者は慰安婦を“性奴隷”として捉えている人物が多い。ジョージ・ヒックス(George Hicks)の著作”The Comfort Women”はその信憑性が破綻している吉田証言に依拠していると言われ、アンドルー・ゴードンはヒックスを重視してまとめたという。国連報告をまとめたクマラスワミ報告も参考文献はヒックスのみに依拠しているという引用エラー タグに対応する が不足しています。。また同じく国連で報告書をまとめたマクドゥーガル報告書は慰安所を等しくレイプセンターと呼び、慰安婦20万のうち3分の4の朝鮮人慰安婦が死んだとしていることについて「アジア女性基金」は自民党代議士の放言に過ぎず、まったく根拠のない主張と批判している。[22]、[142][143]。
英語版ウィキペディアなどの欧米言語版では性奴隷の訳語に当たる「sex slave」等が用いられている。国連の他の問題においても性奴隷という言葉が用いられるが、1992年以降、日本弁護士連合会は、NGOと共に国連において慰安婦問題を性奴隷として扱うように働きかけ、1993年のウィーンの世界人権会議において性的奴隷制という用語が国連で採用されたのが始まりであると語っている。[144]

参考文献

政府資料
「女性のためのアジア平和国民基金」(編)『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』 龍溪書舎  1997年3月20日

慰安婦制度の批判論者の文献
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 (編集)、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク (翻訳)  『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 (1993年11月) ISBN 9784750305486
千田夏光 『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』(双葉社1973年)、三一書房 1978年 9月 ISBN 9784380780127
吉田清治 『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』 三一書房 1983年1 月 ISBN 4380832317
吉見義明 『従軍慰安婦資料集』 大月書店 1992年12月 ISBN 9784272520251
吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月 ISBN 4004303842
吉見義明 ・川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店 1997年 6月 ISBN 4272520504
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995
倉橋正直 『従軍慰安婦問題の歴史的研究』 共栄書房 1994年
ジョージ・ヒックス 『性の奴隷従軍慰安婦』 三一書房 1995
池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態1:日本・台湾・朝鮮編』 緑風出版 2000
池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態2:中国東南アジア太平洋編』 緑風出版 2000
朱徳蘭 『台湾慰安婦関係資料集』第1巻・第2巻 不二出版 2001
尹明淑 『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』 明石書店 2003
鈴木裕子 『日本軍「慰安婦」関係資料集成』上下 明石書店 2006
アジア女性資料センター編 『「慰安婦」問題Q&A編―「自由主義史観」へ 女たちの反論』 明石書店 1997
ゲイ・J. マクドゥーガル他著、バウネットジャパン訳『戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳』凱風社 2000
国際法律家委員会著 『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』 明石書店 1995
VAWW-NETジャパン他著『裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか 』白沢社 2001

慰安婦制度を問題視することに否定的な論者の文献
秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社 1999年6月 ISBN 4106005654
西岡力 『日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」を捏造したのは誰か』 PHP研究所 2005年6月 ISBN 9784569643168
阿部晃 『日本人なら知っておきたい「慰安婦問題」のからくり』 夏目書房 2005年5月 ISBN 9784860620394
大師堂常慰 『慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない』 展転社 1999年 2月 ISBN 9784886561633

関連項目
政府・軍関係
慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(「河野談話」)
軍慰安所従業婦等募集に関する件
女性のためのアジア平和国民基金
戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案
白馬事件
政策・施設
慰安所
ナヌムの家
特殊慰安施設協会
裁判・法律関係
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件
釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟
女性国際戦犯法廷(日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷)
高木健一・福島瑞穂
芸娼妓解放令
国連関係
クマラスワミ報告 ・マクドゥーガル報告書
歴史認識
強制連行・性的奴隷・人身売買
歴史修正主義・否認主義
自虐史観・オーラル・ヒストリー
歴史教科書問題
戦争犯罪・日本の戦争謝罪発言一覧
元慰安婦
金学順・李容洙・姜徳景
金君子・金順徳・李玉善
鄭書云・文玉珠・ジャン・ラフ・オハーン
強制連行肯定派
吉田清治 ・吉見義明
マイク・ホンダ・岡崎トミ子・上杉聰
VAWW-NETジャパン・辛淑玉
強制連行否定派
秦郁彦・西岡力・小林よしのり
中村粲・板倉由明・上杉千年
櫻井よしこ・中西輝政・池田信夫
新しい歴史教科書をつくる会・藤岡信勝・西尾幹二
比較項目
売春・妓生・遊女
公娼・赤線・遊廓・女衒

2009年01月15日

α-メチルトリプタミン

いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

α-メチルトリプタミン (α-methyltryptamine) はトリプタミン系薬物の一種であり、人体には幻覚作用がある幻覚剤である。使用により、サイケデリックな効果と多幸感が得られる。現在では日本国において麻薬の取り扱いを受ける。

α-MT, AMT, 3-IT, IT-290 などの別名をもつ。旧ソ連では1960年代に抗うつ薬として「インドパン」の名のもと 5 mg, 10 mg の錠剤で臨床使用可能であった。

日本国内においては、2000年頃から流通し始めた。液体型合法ドラッグ「Day Tripper」の主成分でもあった。主に露店や通販で小売された。法規制前は、DMTのデザイナードラッグとして警鐘を促された。

麻薬規制された結果、アメリカでは、AMTのベンゼン環の5位にメトキシ基をつけた5-メトキシ-AMTというトリプタミン誘導体が注目されたが、5-Meo-AMTは、名前こそ似ているものの、AMTとは似ても似つかない効果をもたらし、また、効果を発揮するには十分少量(0.5?4mg)で済むため、各地でオーバードーズ事故が相次いだ。

独特の臭いがする。弱いながらもMAOI作用、興奮剤的作用を持つ。前者の作用により、SSRIやSNRIとの併用は危険と言われる。後者の作用は、アンフェタミンとの化学構造の類似に関連していると言われる。流通形態としては、白から淡黄色の微粉末であった。

化学的構造が、神経伝達物質であるセロトニンに類似している。又、5-HT2受容体におけるセロトニンの再現作用と、神経伝達物質における再取り込みと分解の阻害作用をもつ。α-MTは立体中心を持ち、S-(+)-α-MTがより活動的な立体異性体である。

用法・用量
1回に付き、およそ 20?50 mg ほどとされるが、個人が脱法ドラッグとして使う際の計量は、耳掻きですくうなどといった不正確なものが多く、正確な量は計れない。用量にはかなり個人差があり、外国の例では 400 mg を摂取したにもかかわらず生還したという例もあるが、普通はこの量ではセロトニン症候群によって死に至る。使用方法は、主に経口摂取であるが、喫煙や経鼻摂取をする場合がある。

効果・効能
よい効果
多幸感をもたらす
聴覚の覚醒
覚醒的な薬効
興奮剤的な役割をする
どちらともいえないもの
落ち着きがなくなる
体温の上昇
瞳孔が開く
歯軋り
悪い効果
服用後、たいてい 10?12 時間は眠りにくい。服用量によっては、一晩中眠れなくなることもある
目の下に隈ができることがある。
依存性があるとの研究報告がされている。
耐性が付き易い。

法的規制
2003年4月4日、アメリカ合衆国内では米国司法省麻薬取締局により、幻覚剤5-MeO-DIPTと共に規制薬物法におけるスケージュールI薬物指定(麻薬指定とほぼ同意)を受けた。2005年4月17日、日本国内では麻薬及び向精神薬取締法で5-MeO-DIPTと共に麻薬指定を受けた。